この街には、意味の分からない噂がある。「廃ホテルは、満室だ」。初めてそれを聞いたのは、大学の飲み会の席だった。隣に座っていた先輩の藤井が、酔ったふりをして、妙に真剣な声で言った。「おい、山の方の廃ホテル、知ってるか。月光ホテル。あそこ、今も満室なんだって」。「満室」? 廃墟のホテルが、なぜ満室なのか。私は笑って聞き返したが、藤井は答えなかった。薄く笑うだけだった。「泊まりに行くか? 今夜は、空きが出るかもしれないぜ」。
月光ホテルは、バブル期に建てられた小さな温泉リゾートだった。温泉街のはずれ、山あいの林の奥に、三階建ての白い建物が、今も立っている。十年前のある晩、宿泊客十二名が、一夜のうちに消えた。部屋は乱れておらず、荷物も、スリッパも、そのまま残っていた。防犯カメラには、真夜中に宿泊客たちが一斉にロビーへ降りて行き、そのまま二度と戻ってこない映像が映っていたという。警察も山をくまなく捜したが、手がかりは何ひとつなかった。ホテルはほどなく廃業し、以来十年、誰も手を付けずに放置されている。心霊スポットとして噂にはなっていたが、誰も中に入った者の話は聞かなかった。地元では、酒の勢いで「満室」を笑った者は、その夜、山道で誰かに「空きがありますよ」と声をかけられる——という冗談も流行っていた。「あの日から、あのホテルは満室なんだってさ」。藤井は、酒の勢いのまま言った。「だから、泊まりに行こうぜ。満室のホテルに、俺たちが泊まれたら、面白いだろ」。
夜の十時。私たちは裏口の鍵を壊して、ホテルに侵入した。ロビーは、カビと埃の匂いだった。剥がれた壁紙、傾いたソファ、苔の生えた絨毯。受付カウンターの上には、まだ「本日 満室」と書かれた札が立っていた。誰もいないのに。藤井がスマホのライトで壁を照らす。館内案内のパネルには、褪せた文字で、大浴場、レストラン、宴会場、客室の案内が残っていた。十年前は、きっと賑やかなホテルだったのだろう。それが今は、夜風が吹き抜ける抜け殻だ。
私たちは二階、三階と見て回った。どれも、ただの古い廃墟だった。布団が剥き出しになった客室、散乱した書類、割れた窓から吹き込む夜風。私は少し拍子抜けして、ロビーへ戻った。時計は、午前零時を回ったところだった。
上の階で、何かが光った。見上げると、二階の窓に灯りがついている。カーテンの向こうに、ぼんやりと、橙色の明かり。ひとつではない。ふたつ、みっつと、順番に点いていく。数えて、十二。点いたのは、二階に七つ、三階に五つ。十年前に消えた、十二人の宿泊客と同じ数だった。「おい、あれ……」藤井が、声をひそめた。窓のひとつに、人影が映った。カーテンの隙間から、こちらを見下ろしている。いや、窓の内側に、誰かが、立っていた。月光の下、白い建物の窓だけが、ぽつぽつと橙に浮かび上がっていた。
「……行こう」。藤井の手が、私の腕を掴んだ。けれど、出口のドアは開かなかった。鍵がかかっている。さっきまで、開いていたのに。裏口も、非常口も、すべて施錠されていた。スマホは圏外。受付の電話は、受話器を上げる前に、ぷつりと、通話音が途切れた。
「あの、すみません」——声がして、振り返ると、受付カウンターの向こうに男が立っていた。くたびれたスーツに、古いネクタイ。五十代の、痩せた男。いつからそこにいたのか、まったく気配がなかった。彼は、埃の積もった宿泊台帳を開いて、ペンを差し出した。「ご到着、ありがとうございます。こちらに、お名前を」。藤井が、引きつった笑いを浮かべた。「マジで受付、やってんのか。すげえな、このホテル」。そう言って、台帳に名前を書いた。ボールペンで、軽く。「藤井」と。私は、書かなかった。なぜだか、手が動かなかった。男は台帳を閉じて、微笑んだ。「ようこそ、月光ホテルへ。チェックインは、午前零時からでございます。チェックアウトは——」。言いかけて、彼は首をかしげた。「そういえば、こちら、いつでございましたっけ」。
その夜、私たちは二階の、灯りのついた部屋に通された。部屋の中は、十年前のままだった。ベッドは整い、枕元に老眼鏡と文庫本。机の上には、飲みかけの湯呑み。湯気が、立っていた。誰かが、ついさっきまでいた部屋だ。廊下を、足音が歩く。隣の部屋で、話し声がする。笑い声が聞こえる。廊下の突き当たりから、スリッパの音が近づいてきて、また遠ざかる。何度も、何度も。窓の外を覗くと、どの部屋も、十年分の灯りをともして、十年分の夜を過ごしていた。藤井は、もう笑っていなかった。布団の端を掴んだまま、小声で言った。「……なあ。あいつら、自分が死んだこと、知らねえんじゃねえか」。
あの夜、このホテルで、何があったのか。私は翌日、市役所に残る資料で調べた。十年前のあの日、このホテルは、翌朝からの解体が決まっていた。バブル期の負債を清算するための、最後の一泊だった。宿泊客たちは、夜のうちにロビーへ集められ、説明を受けた——明日、このホテルは、無くなる。雪の夜だった。山道は、通行止めだった。彼らは、帰る場所を失って、ホテルの中で、朝を待った。けれど、朝は、来なかった。彼らは、今も、あの夜のまま、チェックアウトの朝を待っている。だから、あのホテルは、満室なのだ。窓の灯りは、今夜も、消えない。
私は、あの夜、宿泊台帳を写真に撮っておいた。最後のページ。十年前の日付。十二の名前。その下の、予約欄に——「二名様、ご宿泊」。名前の欄には、「藤井」と、もうひとつ、私の名前が書かれていた。私は、書いていない。ボールペンではなく、万年筆の、にじんだ字で。十年前から、そこにあった。
翌朝、私は一人でホテルを出た。出口は、開いていた。藤井は、いなかった。二階の窓の灯りは、朝になっても消えず、十三になっていた。
麓のバス停で、新聞配達の女性が、私を見て目を丸くした。「あんた、あのホテルから出てきたの? あそこ、満室だって言われてるよ。十年、ずっと」。私は頷いた。「ええ。でも、今夜は、空きが出るかもしれません」。そう言った自分の口が、笑っていた。
この街の噂は、本当だった。廃ホテルは、満室。今夜も、あの窓の灯りは、数えれば、十三。窓のひとつに、知った顔が映っていて、こちらに、手を振っている。私は、もう、あの山道には近づかない。けれど、たまに、眠る前に、窓の外を確かめてしまう。夜の山のほうに、橙色の灯りが、ひとつ、ふたつ——と、点いていくのを、数えてしまう。十二を数えると、なぜだか、ほっとする。十三を数えた夜は、よく眠れない。