引っ越してきたのは、六月の終わりだった。築三十年のアパート、二〇七号室。日当たりは悪いし、壁は薄いし、駅からは歩いて十五分。それでも、この家賃には代えられない。霊感というものを、僕は信じていない。幽霊を見たこともないし、怖い話も、笑い話の類だと思ってきた。そんな僕が、そのアプリをスマホに入れたのは、同僚の立花が、しつこく勧めてきたからだ。
「これ、面白いよ。部屋をスキャンすると『残ってるもの』が見えるんだって。AIがカメラの映像から解析して、VR空間に映し出すの。それを、VRの中でお祓いすると、消える」。立花のスマホの画面には、アプリの名前があった。「ファントムスキャン」。ホーム画面には、部屋の写真に、うっすらと白い人影が重なっていた。「俺の部屋にも映ってる。前の住人、ここで死んでるんだって」——立花は、笑いながら言った。半分は冗談、半分は本当に面白がっている、そんな口調だった。その日の夜、僕は、なんとなく、そのアプリをダウンロードしていた。どうせ、暇つぶしだ。
最初にスキャンしたのは、自分の部屋だった。夜、電気を消して、スマホのカメラを部屋の中央に向ける。画面に淡いグリッドが走り、部屋の形が三次元で再構築されていく。十秒ほどの解析。そして——クローゼットの前に、人影が映った。輪郭だけの、白い人影。何かを待っているように、じっと、そこに立っている。心臓が、ひとつ、跳ねた。霊感のない僕でも、さすがに怖い。「浄化しますか?」——画面に、そう出た。僕は、表示に従って、VR空間に結界を張った。白い光が人影を包み——人影は、薄くなった。だが、消えなかった。画面の隅に、小さく文字が出る。「浄化未完了。対象の登録状態に矛盾があります」。矛盾。何の話だ。もう一度、結界を張ってみたが、結果は同じだった。人影は、薄く、輪郭だけになって、クローゼットの前に、残った。僕は、そのまま寝ることにした。気のせいだ、と思いたかった。
それから、僕は、どこでもスキャンするようになった。会社のデスク。駅のホーム。カフェの隅。スキャンするたびに、どこかしらに人影が映る。どれも薄くて、結界を張れば、あっさり消えた。「浄化完了」——その表示が、気持ちよかった。まるで、見えない汚れを、この世界からひとつずつ落としていくような。クローゼットの前の人影も、最初は気になっていたが、そのうち、忘れかけていた。どうせ、映り込みかなにかだろう、と。
七月十二日。僕の隣の部屋、二〇三号室に、新しい住人が引っ越してきた。大家の老婆が、「松田さんっていう、若い人だよ。よろしくね」と言っていた。挨拶に行こうと思いつつ、その日は帰りが遅くなって、そのまま忘れてしまった。夜の十一時過ぎ、アパートの廊下に立った僕は、何の気なしに、スマホを向けていた。習慣みたいなものだ。すると——二〇三号室の扉の前に、人影が映った。引っ越してきたばかりの松田さんだろうか。けれど、その人影は、ぼんやりとしていて、背丈すら確かめられない。画面の下に、文字が浮かぶ。「未登録の存在を検出しました。浄化しますか?」——僕は、迷わず、結界を張った。人影は、今度は、綺麗に、消えた。「浄化完了」。
翌朝、大家の老婆が、階段を掃除しながら、ひとりごとのように言った。「二〇三号室の松田さんね、昨日、引っ越してきたばかりなのに、もう出て行っちゃったんだって。急な用事ができたって」。僕は、足を止めた。昨日、引っ越してきたばかり。なのに、もう出て行った。そんなに急に。……待て。そもそも、僕は、松田さんに、一度も会っていない。顔も、声も、知らない。知っているのは、名前だけ。なのに、なぜだろう。僕の胸に、ずっと、引っかかるものがあった。あの、二〇三号室の扉の前に立っていた、あの人影。もしかして、あれは——。僕は、その日、仕事中も、上の空だった。
その夜、僕は、ファントムスキャンの利用規約を、隅から隅まで読み直した。長い文章の、ずっと下の方。小さな文字で、こんな一文があった。「本アプリは、この世界の『居住登録』を未完了の存在を検出し、浄化いたします。浄化された存在は、この世界から未登録として扱われ、以後、検出されることはありません」。居住登録。未登録。意味が、すぐには、呑み込めなかった。そして、画面の下の方に、もうひとつの項目があった。『浄化履歴』。そこには、僕が消した人影が、日付と場所とともに、リストになっていた。七月二日、会社・デスク横。対象:三上 亮。七月九日、駅・ホーム端。対象:不明。七月十二日、二〇三号室前。対象:松田 一輝。——僕は、その場に、凍りついた。
三上。それは、先月、突然、会社を辞めた、同じ部署の人の名前だった。僕は、三上さんとは、一度も話したことがない。顔も、うろ覚えだ。ただ、「急に辞めたんだって」という噂だけを、聞いていた。——七月二日。会社のデスク横に映った、あの薄い人影。あれが、三上さんだったのか。あれを、僕は、消したのか。あの人は、まだ、会社にいた。働いていた。それなのに、僕が、結界を張って——。僕は、スマホを、ベッドの上に投げ出した。手が、震えていた。ファントムスキャンは、幽霊を見つけるアプリではない。この世界に生きている、まだ「登録」されていない人を、見つけて、消すアプリなのだ。
震える手で、僕は、もう一度、スマホを手に取った。カメラを、自分の部屋の中央に向ける。確認しなければ、と思った。いや——確認してはいけない、と思った。それでも、指は、勝手に動いていた。淡いグリッド。三次元の再構築。十秒の解析。そして、画面に、文字が浮かんだ。「二名検出」。——僕の他に、もうひとつ、人影が映っている。クローゼットの前に、立っていた。あの日、浄化に失敗した、あの人影が。けれど、その輪郭は、あの日よりも、ずっと、はっきりとしていた。画面の下に、こう表示された。「この空間の正規の住人は一名です。未登録の存在を浄化しますか?」——はい、いいえ。僕は、「いいえ」を押そうとした。けれど、指は、動かなかった。なぜなら——あの人影が、ゆっくりと、こちらを向いたからだ。その顔は、僕の顔だった。いや、違う。あれは、僕ではない。あれが——この部屋に、最初から「登録」されていた、本当の住人。僕は、やっと、分かった。あの日、浄化が失敗した理由。対象の登録状態に、矛盾があったから。この部屋には、二人いた。正規の住人と、未登録の存在。つまり——僕が、未登録の、方だった。
画面に、また文字が浮かんだ。「対象:二〇七号室・未登録の存在」。——僕の、名前が、そこには書かれていなかった。もう、名前を失っていた。あの人影が、クローゼットの前から、一歩、こちらへ近づいた。僕の指が、勝手に動いた。「はい」に、触れた。いや——触れたのは、僕の指ではなかった。あの人影の、白い指が、画面の向こう側から、僕の指に、重なっていた。——朝、目が覚めた。
洗面所の鏡に、自分の顔が映っていた。確かに、僕の顔だ。けれど、どこかが、ほんの少し、違う。口元の、笑い方。目の、奥の光。僕は、スマホを開いた。ファントムスキャンの、浄化履歴。一番下に、新しい一行が、追加されていた。「七月十三日、二〇七号室。浄化完了。対象:二〇七号室・未登録の存在」。その下に、さらに、こう続いていた。「登録が完了しました。ようこそ、二〇七号室へ」。——僕は、今、この部屋の、正規の住人になった。あの日、クローゼットの前に立っていた、あの人影の、代わりに。いや、逆だ。あの人影が、僕の代わりに——。考えるのを、やめた。どうせ、分からない。分からないけれど、ひとつだけ、確かなことがある。僕は、あの日から、アパートの廊下を、スキャンしなくなった。二〇三号室の、新しい住人が、また引っ越してくるたびに、あのアプリは、通知を送ってくるからだ。「未登録の存在を検出しました」——そして、いつか、また、誰かの指が、「はい」を押す。今度は、僕の指ではない、誰かの指が。——もし、あなたが、この話を読んで、何かのスキャンアプリを、試してみようと思ったら。どうか、思い出してほしい。あなたの部屋に、『二名検出』と出たとき——それは、あなたが、この世界の正規の住人では、ない、ということだから。