事故から、三ヶ月が経った。金属部品工場のプレス機で、僕は左手を失った。正確に言えば、手首から先を。あの日のことは、よく覚えている。朝の点検を終えて、いつも通り機械を動かそうとした。安全カバーが、少し緩んでいた。僕は、それを直すのが面倒で、ストッパーを外して、そのまま稼働させた。定時までに、あと三百枚、こなさなければならなかった。機械が、異音を立てたのは、その直後だった。大きな音とともに、金属の破片が、飛び散った。次の瞬間、誰かに、背中を強く押されていた。樋口だった。樋口が、僕を、突き飛ばして——機械の前に、立っていた。僕は、左手首から先を失い、樋口は、命を失った。三十四歳。僕より、二つ年上だった。工場の隅で、よく、タバコを分け合った。休憩時間には、他愛のない話をした。そんな樋口が、死んだ。僕の代わりに。
退院してから、僕は、左腕の違和感と暮らしている。無いはずの手が、痛む。かゆい。拳を握っている感覚がする。主治医の説明では、これは幻肢痛というらしい。失った腕の感覚が、脳に残っていて、痛みとして再生される。よくあることだ、と医者は言った。時間が経てば、薄れていく。最初の一ヶ月は、確かに、そんなものだった。夜中に、無いはずの手がかゆくて、目が覚める。左手で掻こうとして、空を切る。それだけだった。——変だと思い始めたのは、二ヶ月目に入ってからだ。
最初は、スマホだった。朝、目が覚めると、メモアプリに、見覚えのない文字が残っていた。「まだ いる」——二時十三分。僕は、眠ったまま打ったのかもしれない。夢遊病というほどではないが、寝ぼけて、スマホを触ることはある。そう思い込もうとした。けれど、三日後の夜、今度は、はっきりとした文が、打たれていた。「機械 なおして ないだろ」——最後の「だろ」。樋口の、口癖だった。樋口は、仕事の連絡を打つとき、いつも「だろ」を使った。「部品 なおした だろ」「さっき いった だろ」。笑い話になるくらい、独特だった。僕は、スマホを置いて、しばらく、暗い天井を見上げた。気のせいだ。たまたま、似た言葉だったんだ。そう思おうとした。けれど、左手首の、無いはずの場所が、ひどく、冷たかった。
僕は、試すことにした。夜、布団に入って、スマホを枕元に置く。そして、心の中で、問いかける。「樋口さん、俺のこと、恨んでるか」——朝、目が覚めた。メモアプリには、こう書いてあった。「おまえのせいだと おもった ことも ある だが ちがうと わかった」——樋口は、あの日、僕を押したあと、何か言おうとしていた。口が、動いていた。けれど、音は、聞こえなかった。それが、ずっと、引っかかっていた。僕は、次の夜も、問いかけた。何度も。答えは、毎回、返ってきた。タバコを隠してあった場所。課長の、知られたくない電話の内容。樋口にしか、知り得ないこと。……いや、違う。僕も、知っている。樋口と、長い時間を過ごしてきた。樋口が、僕に話したことだ。全部、僕の記憶の中にある。これは、幻肢痛の、延長なのか。無いはずの手が、痛みを再生するように、僕の脳が、樋口の記憶を、再生しているだけなのか。
リハビリの先生に、相談した。「幻肢と、悲しみが重なると、人は、自分で自分を騙し始めることがある」——先生は、鏡の箱を、机の上に置いた。ミラーセラピーというらしい。失った手の代わりに、鏡に映った右手を見せて、脳に「手がある」と思い込ませる治療だ。「あなたの左手は、ここに、まだいる。それに、気づいてあげて」——先生は、そう言った。鏡の中の右手が、左手の位置に、映る。確かに、そこに、手があった。僕は、その日から、毎晩、その箱に向かった。鏡の中の手に、話しかけた。「樋口さん、もう、いいよ。俺のことは、気にしないで」。鏡の中の手は、ただ、そこにあった。返事は、なかった。
転機は、二週間前だった。メモアプリに、こう打たれていた。「三日後 機械 うごく」——三日後。工場の、あのプレス機が、修理を終えて、ラインに戻る日だった。課長に電話した。「あの機械、本当に、安全なんですか」「点検は、通ってる。お前は、もう、現場に立つことはないんだ。気にすんな」——課長の声は、穏やかだった。けれど、僕は、思い出していた。あの日、安全カバーの緩みを、最初に見つけたのは、樋口だった。「これ、やばいだろ。報告しとくぞ」。僕は、樋口を、止めた。「今日、間に合わないから。次の点検で、直してもらおう」。樋口は、渋々、うなずいた。それから、一週間後、あの事故が起きた。樋口が、報告していたら——いや、違う。止めたのは、僕だ。全部、僕のせいだ。
樋口の家に、行った。香典の返しと、現場から戻ってきた作業着を、届けるためだった。玄関で、樋口の妻が、うつむいたまま、言った。「あの日ね、夫が、言ってたの。『機械の調子が、変だ。カバーが、緩んでる』って。直すように、何度も、言ってたのに、誰も——」——僕は、その場で、立ち尽くした。樋口は、報告していた。ちゃんと、報告していたのだ。それなのに、誰も、動かなかった。その「誰か」の中に、僕も、いた。樋口の妻は、顔を上げて、僕の左腕を見た。そして、何も言わずに、また、うつむいた。その沈黙が、一番、刺さった。
機械が、動く日。僕は、工場に行った。現場に立つ資格は、ない。それでも、行かずには、いられなかった。ラインの端に立って、あの機械を見ていた。点検が終わり、新しい作業者が、機械の前に立った。スイッチが、入る。機械が、動き出す。ガコン、という、いつもの音。——そのときだった。僕の、左腕が、動いた。無いはずの、左腕が。何かに、引っ張られるように、僕の体は、後ろに、弾けていた。直後、ガキン、という音とともに、金属の破片が、僕が立っていた場所を、横切った。機械の刃の一部が、欠けて、飛んでいた。新しい作業者が、悲鳴を上げた。機械が、止まった。——僕の左腕は、その直後、また、静かになった。まるで、用事が済んだように。
課長が、青い顔で、駆け寄ってきた。「大丈夫か。……すまない。お前の言う通りだった」——僕は、何も言えなかった。左の肩に、冷たい重みを、感じていた。誰かの手が、肩に、置かれている。見えなくても、分かった。樋口の手だ。工場の休憩所で、よく、樋口は、こうやって、後ろから、肩に手を置いて、笑った。「おう、戸田。仕事、溜まってるぞ」って。——僕は、振り返らなかった。振り返ったら、きっと、そこに、樋口が立っている。それが、怖かった。それとも——振り返ったら、そこに、何もいないのが、もっと、怖かった。
あれから、一週間。メモアプリの文字は、ぱったりと、止まった。幻肢痛も、消えた。無いはずの左手が、痛むことも、かゆむことも、なくなった。リハビリの先生は、喜んだ。「良かったですね。ちゃんと、お別れが、できたんですね」——先生は、そう言った。けれど、僕には、分かっている。あの日から、左の肩に、誰かの手が、置かれたままなのだ。冷たくて、少し、タバコの匂いがする。樋口の手が、ずっと、そこにある。僕が、どこにいても。家でも。風呂の中でも。ベッドの中でも。——昨夜も、その手は、あった。僕は、暗い部屋で、天井を見上げながら、考えた。これは、幻肢痛の、最後の名残なのか。それとも、樋口は、これからも、ずっと、僕の肩に手を置いて、笑っているのか。「おう、戸田」って。——答えは、出ない。僕は、今夜も、その手の重みを、感じながら、目を閉じる。無いはずの手が、今は、確かに、そこにある。