祖母が亡くなったのは、三年前の冬だった。八十七歳で、老衰だった。最期は穏やかで、病院のベッドの上で、母と私と伯母の三人が手を握っていた。眠るように逝った、と後から母は言ったが、私にはそれが本当かどうかよく分からない。終わりというのは、案外静かで、突然で、心の準備というものがどこかへ行ってしまう。
祖母のスマートフォンは、解約の手続きをするまで、母が実家の引き出しにしまっていた。葬儀や四十九日の手続きに追われているうちに、端末のことは後回しになった。解約しようと思いながら、思うだけで時間が経った。解約するということは、あの番号が世の中から消えることだと、なんとなく感じていたのかもしれない。
祖母には、生前よく電話をした。東京で一人暮らしを始めてから、月に一度は近況を報告した。電話口で必ず「かなこ」と言って、それから「飯、食べてるか」「風邪、ひいてないか」と聞いた。答えはそれだけで、後は私の話をずっと聞いてくれた。最後に電話したのは、亡くなる三週間前だった。声が少し細くなっていたが、変わらず「かなこ」と言った。あの電話で、ちゃんとさよならを言ったかどうか、今でも覚えていない。
その番号から着信があったのは、去年の十月のことだった。
夜中に目が覚めて、スマートフォンを手に取ったとき、画面に着信の通知があった。深夜二時三分。見知らぬ番号だった。出損ねていた。留守番電話にメッセージが入っていたので、再生した。
雑音が多かった。砂嵐のような音の中に、かすかな声があった。何を言っているのか、すぐには聞き取れなかった。音量を上げて、もう一度再生した。耳をすませた。
三回目の再生で、ようやく一語だけ聞き取れた気がした。
「……かなこ……」
私の名前だった。
心臓が、少し止まるような感じがした。声の感じが、どこかで聞いたことがある気がした。でも、誰の声なのか、すぐには思い出せなかった。番号を確認した。登録のない番号だった。ネットで検索してもヒットしなかった。深夜の二時三分に見知らぬ番号から電話がかかってきて、留守電に「かなこ」とだけ残されている。
その夜はなかなか眠れなかった。何度も留守電を再生した。「かなこ」という言葉の、ゆっくりとした言い方。丁寧に、一音一音を置くような言い方が、声の中でだけはっきりとしていた。その前後は雑音に飲まれていた。声の低さ、間の取り方、そういうものに、どうしても聞き覚えがあるような気がした。でも、確信が持てなかった。夜中に繰り返し再生するうちに、頭がぼんやりしてきて、かえって分からなくなっていった。
一週間後、実家に帰った。母の誕生日があったからだ。家族が集まって、夕食を食べて、しばらく話をした。食後に、なんとなく例の着信のことが頭に浮かんで、母に話してみた。変な番号から夜中に留守電が入っていて、声に聞き覚えがあるのに誰か分からなくて、と言った。番号を伝えると、母が手を止めた。
「……それ、おばあちゃんの携帯の番号じゃない?」
母が手元のスマートフォンで確認すると、そうだった。祖母が生前に持っていた番号だった。解約はまだしていなかった。端末は引き出しの中に、ずっとそのままになっていた。
母が引き出しから端末を取り出した。画面は真っ黒で、バッテリーはほとんど切れていた。充電コードを探して繋いで、しばらく待つと起動した。電話アプリを開いて、発信履歴を確認した。
私の名前があった。発信時刻、二時三分。先月の日付。
誰も操作していないはずの端末が、私に電話をかけていた。
母と二人で、しばらく無言でその画面を見ていた。考えられる説明は、いくつかある。誤作動。システムエラー。登録されていた私の番号に、何かの拍子にかかってしまった。スマートフォンは、アプリの動作や誤ったタップで意図しない発信をすることがある。引き出しの中で何かに押されたのかもしれない。そういう説明なら、できる。
でも、あの声のことは、説明がつかない。
母にも留守電を聞かせた。イヤホンで一緒に聞いた。母は何度か再生して、しばらく黙っていた。それからゆっくりと、「……おばあちゃんかな」と言った。断言ではなかった。でも、否定でもなかった。
祖母は生前、私の名前をよく呼んだ。電話をかけてくるたびに、出ると必ず「かなこ」と言ってから話し始めた。遠回りしないで、まず名前を呼ぶのが祖母の癖だった。ゆっくりとした声で、一音一音を丁寧に発音した。「か・な・こ」と。その言い方が、留守電の声と、同じだった。
私には、あの声が祖母だという確信がある。理屈ではなく、感覚として。でも、確信と信じることは少し違う。信じてしまったら、私には何もできない。折り返し電話することもできない。手紙も届かない。ただ受け取るだけで、何も返せない。それが怖くて、少し遠ざけて考えていた部分があった。
留守電は、今も消せないでいる。
夜中に目が覚めると、ときどき再生する。雑音の中の「かなこ」という声を聞きながら、ああ会いたかったな、と思う。あの声の後に、祖母が何を言おうとしていたのかが、いつも気になっている。「元気か」と聞きたかったのか。「ちゃんと食べているか」と聞きたかったのか。「あなたの声が聞きたかった」と言いたかったのか。それとも、ただ一度、名前を呼びたかっただけなのか。
どれでもいい、という気がする。どれであっても、私はあの夜、電話に出て「うん、大丈夫だよ、おばあちゃんこそ元気?」と答えたかった。
今年の秋、ようやく解約の手続きをした。母と一緒に、手続きを済ませた。「解約完了」と画面に表示されたとき、あの番号は世の中から消えた。でも、私のスマートフォンには、あの留守電がまだ残っている。消そうとしたことは、一度もない。
着信に気づいたのが、五分遅かった。それだけが、今でも悔しくてならない。