最終バックアップ

SFホラー |2026.09.24

田村哲也が勤める精密部品工場では、二年前から全社員に「ライフロガー」という小型センサーの装着が義務付けられていた。耳の後ろに磁力で貼り付けるウェアラブルデバイスで、視野と聴覚を常時クラウドに記録する。労災調査と品質管理トレーサビリティのためだ、と会社は説明した。田村は最初こそ気持ち悪さを覚えたが、慣れてしまえばシャワーの時だけ外す程度で、四年分のデータがクラウドに積み重なっていることすら忘れていた。

松下誠が死んだのは、十月の水曜日、午後二時十七分だった。七番ラインの油圧プレスが誤作動し、フレーム交換をしようとした松下の左腕に噛んだ。三十秒後には工場全体がサイレンで満ちていた。田村はその時、二十メートル離れた品質検査ブースにいた。少なくとも、そのはずだった。

翌週、事故調査委員会から田村に連絡が来た。品質管理担当として松下の最終ライフログの精査を求める、という話だった。ウェアラブルから吸い上げたデータを社内システムで再生すると、記録者の最後の数分間を追体験できる形になっている。田村は会議室で一人、画面の前に座った。

再生が始まった瞬間から、何かがおかしかった。松下の視野に映るプレス機。操作パネル。並んだストック棚。想定内の映像だった。しかし——プレス機の横に人間が立っている。ヘルメットをかぶった作業服姿の人間が、パネルに手を伸ばしている。金属製の反射パネルに映り込んだその横顔が見えた瞬間、田村の指先が震えた。

自分の顔だった。

顎の形、耳のそばのほくろ、二週間前に切ったばかりの髪の長さ。間違いなく田村哲也だった。映像の中の田村は、プレス機の操作パネルをゆっくりと、確かめるように操作していた。その数秒後、松下の視野が激しく揺れ、映像が切れた。事故の瞬間だ。

田村はすぐ自分のライフログを開いた。当日の午後二時から三時の帯。再生すると品質検査ブースの作業台が映っている。部品の確認作業、ノートを取る自分の手。環境音には遠い機械音がある。正常に見えた。しかし——午後二時十六分五十三秒から、二時十七分三十一秒まで、三十八秒の空白があった。映像がない。音もない。タイムコードだけが刻まれ、データが存在しない。

システムサポートに問い合わせると「デバイスの通信エラー、または物理的な切断によるものです。珍しくはありません」という回答が返ってきた。田村は耳の後ろに手を当てた。四年間で一度もデバイスを紛失したことはない。電池切れも通信エラーも経験がなかった。

その夜、帰宅してから一度だけ松下のログを開いた。事故の直前、松下の視野の端に映っていた自分の横顔をスクロールバックして止めた。拡大すると、映像の中の田村がゆっくりとカメラの方向を向いていた。ログ記録者の視線を認識しているかのように——ありえない角度で。唇が動いている。読唇術を知らない田村には何を言ったのか分からなかった。しかし次のフレームで、松下の視野が激しく揺れ、映像が消えた。

田村はタブレットを閉じた。

翌朝、自分のログの空白直前のフレームを拡大した。品質検査ブースの窓ガラスが映っている。外光で白んだ窓の奥に、ぼんやりとした人の形があった。田村はその画像を閉じた。そして考えた——自分は四年間、センサーを外したのはシャワーの時だけだった。だとしたら、三十八秒のデータを消したのは誰か。何のために。

昼休み、スマートフォンに通知が届いた。ライフログアプリからのプッシュ通知だった。

「十月水曜日の空白ログが復元されました。ご確認ください」

田村は三分間、その通知を見つめた。松下の視野の中で動いていた自分の唇が、何を言おうとしていたのか、今なら分かるかもしれない。指がアプリに向かいかけて、止まった。復元されたログを開けば、自分が何をしたのかが分かる。自分が何をしたのかが、記録として残る。それは会社のクラウドにも、事故調査委員会の端末にも、すでに同期されているはずだ。

田村は携帯を机の引き出しに入れ、鍵をかけた。

翌日も、その翌日も、引き出しの鍵は開けなかった。ただ朝と夕方、耳の後ろのデバイスに指が触れるたびに、手を止めた。四年間、一度も気にしなかったセンサーが今は重くて、毎晩夢に出てくる。夢の中では映像が再生されている。空白の三十八秒間。田村がプレス機の前に立ち、パネルに手を伸ばし、ゆっくりとこちらを振り向く。

目が覚めるたびに、枕元のスマートフォンが一件の未読通知を表示している。「復元されたログをまだ確認していません」。田村は画面を伏せ、天井を見つめる。外はまだ暗い。工場のサイレンの音が、どこか遠くから聞こえてくる気がした。

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