川口健太が最初に気づいたのは、八月の終わりだった。
廊下を歩いていたとき、スマートフォンが鳴った。取り出そうと思った瞬間、すでに手がポケットの中に入っていた。たったそれだけのことだった。夏の疲れがたまっているのだろうと思い、その夜は早く寝た。
似たようなことが続いた。エレベーターのボタンを押し終えてから「押そう」という判断が来た。デスクの引き出しを開けてから「開けよう」という意思が追いついた。コーヒーを一口飲んでから、「飲もうか」とまだ考えていた。行動と意思の間に、薄い紙一枚ほどの隙間が入り込んでいる感じがした。川口はある夜、スマートフォンで調べた。ベンジャミン・リベットという神経科学者の実験が出てきた。人間は動作の開始よりも○・三秒以上前から脳の活動が始まっており、「自分で決めた」という意識は後から貼り付けられるラベルにすぎない——という内容だった。川口はその記事を読んで、少し安心した。みんな同じなのだ、と。
しかし翌週、川口は帰宅してからリビングのソファに腰を下ろし、テレビのリモコンを手にしていた。点けようとしたのかどうか、分からなかった。画面がついた。見たいと思っていたわけではない番組が流れていた。台所で夕飯の準備が始まっていた。米を研ぐ手、野菜を切るまな板の音。川口は自分が台所に立っているのを、どこか遠くから眺める感覚があった。食べ終えて、皿を洗って、風呂を沸かした。寝室に入った。布団を敷いた。横になった。何一つ、自分で決めた記憶がなかった。
翌日の昼、コンビニに寄った。昼食を買おうと思っていたが、棚の前に立ったとき、手は見ていないものを取り始めた。炭酸水、酢昆布、見知らぬメーカーのカロリーバー。「これじゃない」と思いながら会計を済ませた。外に出て袋の中を見た。欲しいものは何一つ入っていなかった。その日の昼食は、デスクで黙ってカロリーバーだった。
九月に入ると、ずれは目に見えて大きくなった。
月曜の朝、前夜から喉が痛く、体がだるかった。会社を休もう、と川口は決めた。曖昧ではなく、はっきりと、完全に決めた。体温計を探そうとしたら、もう起き上がっていた。シャワーを浴びながら「今日は休む」と繰り返したが、出たらタオルで髪を拭いていた。スーツを着るつもりはなかった。着ていた。靴を履くつもりはなかった。玄関にいた。
駅のホームに立ったとき、川口は初めて声に出した。「俺は今日、休む」。隣に立っていたサラリーマンが振り返った。電車が来た。乗るつもりはなかった。乗っていた。
会社のデスクに座ったとき、体の動きがふと止まった。川口は膝の上に両手を置き、息を整えた。「俺は今日ここに来るつもりがなかった」と、今度は小さく口に出した。隣席の山本が「え?」と聞いた。「なんでもない」と言った。自分でそう言おうと決めたのか、もう分からなかった。
翌週、部長への定例報告で、川口は言わないつもりだった数字を全部話した。来月の外注コストの超過見込み、まだ社内で共有していなかったスケジュールの遅れ、先週の会議で伏せておいた見積もりの差異。自分の声が少し遠く聞こえた。話し終えたとき「よく報告してくれた」と言われた。「ありがとうございます」と答える声がした。川口はそう言おうとしたわけではなかった。
その週の金曜、同期の木村から飲みに誘われた。断ろうとした。「行く」と言っていた。居酒屋のカウンターで生ビールを飲みながら、川口は自分が話す声に耳を傾けた。仕事の愚痴、来月の有給計画、先輩の話への同意、笑い声。どこにも川口本人がいなかった。声だけがいた。木村が「最近どうよ」と聞いた。「悪くないよ」と声が答えた。川口は「悪い」と言おうとしていた。
九月の末、川口は残業後に一人で残り、退職届を書こうとした。書式はあらかじめ調べてあった。「一身上の都合により」から始まる定型文が頭に入っている。用紙を取り出し、ボールペンを手に取った。
書けなかった。
手が、ゆっくりとボールペンをペン立てに戻した。用紙を引き出しに入れ、ロックをかけた。川口は自分の手の動きをただ見ていた。止めようとした。動かなかった。止めようとした川口の意思も、何も変わらなかった。止めることも、動かすことも、どちらもできなかった。
その夜、最寄駅から帰宅して洗面所で手を洗い、顔を上げると鏡に自分が映っていた。シャツの袖口を折り直す手。ネクタイを緩める指。川口は「俺はこれをしていない」と思いながら、鏡の中の自分が細かい動作を続けるのを眺めた。
動作が止まった。
鏡の中の目が、川口の目と視線を合わせた。
笑った。
口元は動かなかった。目だけが、ほんの少し細くなった。川口の体は笑っていなかった。笑おうという気持ちも何もなかった。鏡の中の目だけが、それ自体の意思を持つように、笑った。
川口はしばらくそこに立っていた。体も動かなかった。これが初めて、自分の中の二つのものが一致して止まっていた時間だった。どちらが自分なのかを、考えた。鏡の外にいる方か。鏡の中にいる方か。
翌朝、体はいつも通り起きてスーツを着て会社へ向かった。川口は後ろから自分の背中を見るような感覚で電車に揺られた。窓ガラスに映る自分の顔を見た。きちんとした顔で、まっすぐ前を向いている。同じ車両の人たちと変わらない、ありふれた勤め人の顔で立っている。
川口自身は、どこを向けばいいのか、もうずいぶん前から分からなかった。
ただ、鏡の中の目だけが、毎朝確かに笑っていることは知っていた。それが何を意味するのかは、考えないようにしていた。自分が考えたとして、それが自分の考えなのかどうかも、もう分からなかったから。