処分待ち

実話系怪談 |2026.09.27

今年の春、私は十五年勤めた出版社を辞めた。

理由はいくつかある。給料が上がらないこと、直属の上司が定年になったこと、仕事への意欲が急に失せたこと。だが同僚にも妻にも、正確な理由を話したことはない。話せる内容ではないから。

事の発端は、去年の十月だった。

会社の倉庫整理を一人で任されたのは、十月の半ばの金曜日だった。三十年以上分の不要書類を処分するよう命じられた。蛍光灯がちらつく六畳ほどの倉庫に積まれた段ボール箱を片端から確認し、シュレッダー行きと廃品回収行きに仕分けていく。作業は三時間ほどで終わる見込みだったが、最後の段ボール箱を開けたとき、底から古い原稿の束が出てきた。

黄ばんだ原稿用紙に、コピー用紙に打たれた付箋が貼ってある。「不採用・2001年受付・処分待ち」。タイトルは「おかえり」。著者名は「匿名希望」。二十五年前の投稿原稿だ。本来は他の書類と一緒に処分するはずだった。しかし最初の一ページを開いて、私は手が止まった。

主人公は三十八歳の男性編集者で、名前は「辻村隆史」。小さな出版社で勤続十五年になる。妻と二人暮らしで、妻は専業主婦、名前は「美穂子」という。

私の名前は辻村隆史。三十八歳。勤続十五年。妻の名前は美穂子で、専業主婦だ。

偶然の一致にしては細部が多すぎる。しかし読み続けると、それだけでは済まなかった。

原稿の辻村隆史には、過去が詳細に描写されていた。大学時代の挫折、最初の失恋の経緯、就職活動での失敗、妻との出会い、子どものいない生活、趣味の話。一つ一つが私の記憶と重なり、読み進めるたびに心臓が冷えていくような感覚があった。出版社で働き始めた年、初めて担当した本のタイトル、校了の夜に妻と食べたラーメン屋の名前まで、すべてが私の記憶と寸分違わず一致していた。ただの同名同齢の偶然ではない。この原稿は、私の人生を書いている。二十五年前に書かれたものが。

誰が書いたのか。どうしてこんなものが存在するのか。頭の中でぐるぐると問いが回ったが、手は止まらなかった。

原稿の後半になると、時制が変わった。

過去の話が終わり、原稿の辻村隆史の「現在」が描かれ始める。彼は会社の倉庫で、古い原稿を読んでいる。蛍光灯がちらつく六畳ほどの倉庫で、段ボール箱に囲まれ、古びた原稿用紙の束を膝の上に置いている。外は曇り空で、換気扇がかすかに回っている——そう書いてある。倉庫を見回した。蛍光灯がちらついていた。私は膝の上に原稿用紙の束を置いていた。外は曇りで、換気扇がかすかに回っていた。

その先を読むのが、怖かった。しかし止まれなかった。

原稿の辻村隆史は、いつの間にか夜になっていることに気づく。翌朝、妻から電話が来て「昨日、なんで帰ってこなかったの? 電話もしたのに」と問われる。しかし彼には一晩が経過した感覚がない。倉庫に来て、原稿を読み始めた。それ以降の記憶がない。同僚に発見されたとき、彼は原稿を両手で持ったまま、立ったまま壁の一点を見つめていた。記録では、彼が行方不明だった時間は一夜ではなく、三日間だった——

私はその場で原稿を閉じた。

時刻を確認した。午後五時二十分。倉庫に来たのは午後三時だった。二時間が経っていた。体感では三十分ほどだった。

スマートフォンを確認すると、妻からの着信が六件あった。一番新しい着信は「四時間前」になっている。さらに、メッセージが一件届いていた。「さっきも電話したけど出ない、大丈夫? 心配してる」——時刻は「午前一時十七分」だった。今は午後五時二十分のはずだった。午前一時十七分のメッセージが「四時間前」ということは、今は午前五時過ぎになる。

私は倉庫の小窓を見た。外は暗かった。

換気扇はまだ回っていた。

廊下に出ると会社の電気は落ちていて、非常灯だけがついていた。スマートフォンの日付を確認した。来た日の翌々日になっていた。私は二日と数時間をその倉庫で過ごしていた。自分でもなぜ気づかなかったのかわからない。倉庫の外に出た記憶がない。飲まず食わずだったはずなのに空腹感もない。ただ、原稿を読んでいたという感覚だけがある。

妻には過労で倒れていたと伝えた。社内には体調不良と報告した。監視カメラの映像を誰も調べなかったことを、今でも感謝している。どんな映像が記録されているかを、私は見たくなかった。

あの原稿は、読む前に処分すべきだった。

しかし、私がもっとも恐れているのは別のことだ。

原稿には、続きがあった。三日間のあとのことも書かれていた。原稿の辻村隆史は会社を辞める。その翌春に引っ越しをする。引っ越し先の住所が書かれていた。私が今住んでいるマンションの、私の部屋番号と一致していた。私がそのマンションに越してきたのは、あの原稿を読んだ翌春のことだ。もちろん偶然ではない。なぜかはわからないが、引っ越し先を探すとき、自然とあの住所が頭に浮かんで、気づいたらその部屋を契約していた。

そして原稿の最後の一文には、こう書かれていた。

「この家の台所の壁の中に、原稿用紙を一束封じた」

私は今も、台所の壁を開けることができないでいる。開ければ何かがわかるかもしれない。あるいは何かが始まるかもしれない。どちらにせよ、知りたくないことが書いてあることはわかっている。

原稿の主人公に私の続きが書いてあるとするならば、壁の中の原稿には——その先が書いてあるはずだから。

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