高校の美術室には、窓際の右端のイーゼルに触れてはいけないという暗黙のルールがあった。
塚本雪子がその話を初めて聞いたのは、一年生の春だった。美術部に入ったばかりの頃、先輩に「あそこだけは使わない方がいい」と言われた。理由は教えてもらえなかった。ただ、毎年のように部の誰かが同じことを言い継いでいく。そういう場所が、学校にはひとつかふたつある。
高校二年の秋、美術部の自由課題の提出期限が三週間後に迫っていた。テーマは「不在」。雪子はアイデアが出ないまま、放課後に美術室へ残った。他の部員はすでに帰っていて、蛍光灯だけが白く点いていた。
自分のイーゼルをセットし、B全のケント紙を貼った。外は曇っていて、校庭から野球部の声が遠く聞こえていた。雪子は何を描くか決めないまま、木炭を持った。
最初は、ただ空の椅子を描くつもりだった。不在を象徴するものとして、空席は一番わかりやすい。脚を描き、背もたれを描いた。
気づいたとき、椅子に人が座っていた。
自分で描いたはずだが、描いた記憶がなかった。俯いた女の子が、制服姿で椅子の上にいる。長い黒髪が顔を隠していた。足が床に届いていなかった。
変だとは思ったが、続けた。「不在」というテーマに対して、そこにいるのにどこかへ行ってしまったような存在——そういう解釈は成立する。髪に影をつけ、制服の襟の形を整えた。手は膝の上に揃えて置いた。
一時間ほど経って、雪子は休憩のために木炭を置いた。立ち上がり、少し距離をとってキャンバスを眺めた。
人物の手が変わっていた。
膝の上に置いていたはずだった。今は体の横に、わずかに前へ差し出されていた。誰かに向かって差し伸べているような角度で。
描いた覚えがなかった。
雪子は首をひねったが、それ以上考えなかった。絵を描いているとき、自分の手の動きを全て意識しているわけではない。それだけのことだ。
翌日、美術の授業で川村先生が机を回った。雪子のキャンバスの前で、先生の足が止まった。川村先生は五十代の細い女性で、コメントはいつも的確だが感情を表に出さなかった。
「誰を描いたの」
「テーマが『不在』だったので……いなくなった誰かをイメージで」
先生はしばらく、キャンバスを見ていた。クラスの話し声が遠く聞こえていた。
「あなたが今使っているイーゼル——三年前まで、森脇颯姫という生徒が使っていた」
聞いたことのない名前だった。
「二年生の後期試験の日に、この部屋で倒れて、その夜に亡くなった。脳の出血だった。発見したとき、あのイーゼルに描きかけのデッサンがあって——それが」先生はそこで言葉を切り、もう一度キャンバスを見てから言った。「あなたの絵と、同じ構図だった」
その夜、雪子は図書室で三年前の卒業アルバムを探した。森脇颯姫の名前を見つけた。細面で、長い黒髪の、少し俯き加減の写真。
スマートフォンで撮ったキャンバスの写真と並べた。髪の流れが同じだった。首の傾き方が同じだった。手の位置も——写真では膝の上に置かれていた。
でも今、雪子のキャンバスの手は前に差し出されていた。
翌日の放課後、雪子は作品を仕上げようと美術室に向かった。廊下からガラス窓越しに室内を確認した。蛍光灯はついていない。夕方の薄い光だけが差し込んでいた。
自分のイーゼルに、誰かが立っていた。
長い黒髪、制服姿。こちらに背を向けて、静止していた。
雪子は声を出せなかった。一秒か二秒、固まっていた。それからゆっくりと扉を開けた。
室内に人はいなかった。
イーゼルの前に、キャンバスがあった。昨日のケント紙ではない。新しい、白い紙。
でも、描かれていた。
俯いた女の子が——今日は顔を上げていた。こちらを向いていた。白い顔の中に、黒い目が二つ、まっすぐに雪子の方を見ていた。差し出された右手が、扉の方へ伸びていた。
夕方の斜光が窓から差し込み、雪子自身の影が廊下の方へ伸びていた。
キャンバスの中の人物の影は、逆の方向に伸びていた。
廊下から、掃除機の音が近づいてきた。雪子は扉を閉め、一歩引いて、もう一度窓越しに室内を確認した。
キャンバスは白かった。人物はいない。ただの白い紙が、イーゼルに貼られていた。
翌朝、昨日まで描き込んでいた自分のケント紙を確認しようとして、雪子は気づいた。一日かけて描いた人物が、消えていた。白い紙に変わっていた。
ただ一ヶ所だけ。手が差し出されていた場所の近くに、爪で引っかいたような細い傷があった。
まるで、掴もうとして届かなかったような。
雪子はそのケント紙を丸めて捨てた。美術部は今年度末に引退するつもりだった。卒業するまでの一年と半分、美術室には近づかないことにした。
それから二週間後、廊下で後輩の一年生に呼び止められた。
「先輩、右端のイーゼル、使っちゃいけないって聞いたんですけど、理由って何ですか?」
雪子は少し考えて、首を振った。
「わからない」と答えた。「ただ、そういうルールがあるから」