伝送誤差

SFホラー |2026.10.03

2033年10月、橘朔也は東京から大阪への量子転送を初めて利用した。

「量子転送」はすでに日常語になっていたが、朔也がそれを選んだのは単純に経費精算の都合だった。QTラインの東京拠点は品川駅北口から徒歩五分の白いビルに入っていて、フロントは清潔で、手続きはほぼデジタルだった。書類への署名と健康状態のアンケートを済ませ、荷物を専用ロッカーに預けた。金属類は取り外すよう言われ、ネクタイピンをポケットに入れた。

転送室は白かった。部屋の中央に医療用MRIに似た筒状の機械が据えられていた。担当スタッフが説明した。生体情報の完全スキャン、信号化、転送、大阪拠点での再構成まで、所要時間は三分。公表されている成功率は99.7%だった。

「ご不明な点がなければ」と言われ、朔也は「ありません」と答えた。

横になって目を閉じた。何も感じなかった。眠れもしない飛行機のように、ただ時間が流れた。

「お疲れ様でした」という声がして目を開けると、大阪の転送室だった。スーツのしわも、ポケットの中の小銭も、そのままだった。係員が水のペットボトルを差し出し、朔也は受け取って、礼を言い、出口に向かった。

大阪の空気は東京と同じだった。当然かもしれなかった。

翌日から通常通り仕事をした。客先への訪問も問題なく終わり、帰りは電車を使った。乗り換えのホームで、自分が電車で帰っていることをわずかに意識した。それだけだった。

三日後、最初の異変があった。

会社のデスクでスマートフォンを取り出し、指紋認証で開こうとして、弾かれた。画面に「登録された指紋と一致しません」と表示された。もう一度試すと通った。それだけなら気にしなかった。

翌朝、洗面台の前で歯を磨きながら右手を見た。

傷跡がなかった。

三年前のことだ。当時まだ現場に出ていた頃、作業中に部材の角で右手の人差し指を深く切り、縫合が必要だった。三センチほどの白い線が指の側面に残っていた。ずっとそこにあった。朔也は自分の手の形を知っているつもりだった。あの傷はその一部だった。

皮膚はなめらかだった。

鏡の前で何度も確認した。左手には別の古傷があった。右手にはなかった。見間違いだと言い聞かせた。傷跡が薄くなることはある。しかし三センチの縫合跡が完全に消えるとは思えなかった。

その日一日、右手の人差し指が気になった。

一週間後、社内のAI秘書システムに名前を入力したとき、コンマ数秒の処理ラグが生じた。一般のユーザーには気にならない程度の遅延だった。しかし朔也はシステムエンジニアで、応答時間の微細な揺れに敏感だった。バイオメトリクスの照合処理が走った、と直感した。そしてその照合が、0.何秒かの間だけ正常に完了しなかった。

夕方、見知らぬアドレスからメールが届いた。差出人名はなく、件名は空白だった。本文には「QTラインの東京拠点で転送を受けた橘朔也様へ。重要なご連絡があります。今週中にご来社ください。技術部一同」とあった。

翌朝、品川のビルを訪ねた。

フロントに通されると、転送時に担当した技術者の白坂が待っていた。三十代半ばで、初回のときより顔色が悪かった。部屋には白坂と朔也の二人だけだった。窓の外に品川の高架が見え、電車が黙って通り過ぎた。

「単刀直入に申し上げます」と白坂は言った。「お客様の転送に0.3%の誤差が生じていたことが後日判明しました。現在のお客様の身体機能・認知機能はすべて正常値の範囲内です。0.3%の誤差は生命活動に支障のない範囲です」

「ただ」と朔也は言った。

白坂は手元の端末を一度見た。「転送完了後に、元の信号データが完全消去されませんでした。通常は再構成と同時に自動消去処理が走りますが、エラーにより処理が実行されなかった。転送前のお客様の生体信号が、今もシステムのバッファ領域に残存しています」

「今も」と朔也は繰り返した。「信号に意識はありますか」

白坂は答えなかった。

「意識はありますか」

「信号の内部状態については、法務部との協議が必要で、現時点では私の立場ではお答えできません」

「いつ消去されますか」

「それも法務部の判断になります。現時点では保存の方向で……」

朔也は立ち上がった。何か言うべきことがあるはずだった。しかし言葉が出なかった。廊下に出て、エレベーターで一階に降りた。機械的に動いていた。自分が本当に自分であるという感覚が、少しずつ透けていくような気がした。転送の三分間に何が起きたのか。今ここに立っている自分は、本当に朔也なのか。それとも0.3%の欠けた何かなのか。

ビルを出ると、品川の高架下に夜が来ていた。秋の乾いた空気に電車の音が混じっていた。人の流れが横を通り過ぎた。誰も朔也を見なかった。普通の男が立っているだけだったから。

ポケットのスマートフォンが震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。

本文は三文字だった。

「助けてください」

発信者IDを確認した。

自分の名前が表示されていた。

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