返答

心理ホラー |2026.10.04

中谷悠里が佐伯奈緒を初めて診たのは、今年の七月だった。

二十四歳の会社員。紹介状には「職場での不安感、軽度の離人症状」とあった。受付で渡された問診票には几帳面な字で症状が書かれていたが、項目外の余白に、本人の手で一文が付け加えられていた。〈質問される前に、自分が答えているのが聞こえます〉

中谷はその一文に赤鉛筆で丸をつけ、初回面談に臨んだ。

「声、というわけではないんです」と佐伯は言った。「頭の中で、自分の声が先に喋っているんです。上司に呼ばれると、部屋に入る前から『はい、承知しました』という自分の声が聞こえる。電話が鳴ると、相手が話し始める前に『今週中に対応します』と自分が言っている。予測や勘ではなくて、ただ答えが先に来るんです。質問の内容を知っているわけじゃない。でも答えはわかる」

「どれくらい前から?」と中谷は聞いた。

「三年ほどです。でも最近、特定の人との間では特に強くなっています」

「特定の人?」

佐伯はわずかに目を伏せた。「ここに来てから気づいたことなんですが……先生との間では、特に強いです」

中谷は無表情を保ちながらメモを取った。〈転移の可能性あり。要注意〉

三ヶ月、週に一度のセッションを続けた。解離症状としてのアプローチは効果があるように見えた。佐伯は職場でのパニックが減り、対話も落ち着いてきた。症状そのものは消えていなかったが、彼女は「うまく付き合えるようになってきた」と言った。

七回目のセッションで、中谷は実験を提案した。

「紙に質問を書きます。声には出しません。あなたはその間、頭の中で何か聞こえるかどうか教えてください」

佐伯は少し考えてから頷いた。

中谷はメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。*今朝の朝食は何でしたか。*

「トーストとコーヒーです。ほとんど食べられませんでした」と佐伯が言った。

中谷はすぐに次を書いた。*最近、眠れていますか。*

「三時から四時の間に必ず目が覚めます。そのまま朝まで眠れないことが多いです」

中谷の手が止まった。どちらの答えも正確だった。だが問診票に書かれていた内容の延長線上でもある。確証にはならない。三つ目を書いた。*このセッションで、一番聞かれたくない質問は何だと思いますか。*

長い沈黙があった。

「なぜ私の声だけが先生に届くのか、という質問です」と佐伯は言った。

「聞かれたくないのはなぜですか」

「理由を話すと、先生が怖くなると思うから」

その夜、中谷はセッションの録音を聴き直した。三つ目の質問を書き始めた瞬間を探した。

ペンがメモ帳に触れた音より、〇・八秒早く、佐伯の声が始まっていた。

巻き戻して、もう一度聴いた。もう一度。結果は変わらなかった。

翌週の予定を一日早め、中谷は木曜の午後に佐伯を呼んだ。

佐伯は約束の時刻の三分前にドアを開けた。

「早く来てしまいました」と佐伯は言い、いつもの椅子に座った。「先生が不安そうだったので」

「昨日連絡したわけではないのに、なぜ今日来たとわかったんですか」

「聞こえました。先生の問いが。昨夜から」

中谷は手帳を閉じた。「佐伯さん。私以外の人の声が聞こえたことはありますか」

「ありません。先生だけです。最初のセッションから」

「最初から」

「はい。だからずっと通えていました。先生の問いが聞こえる限り、私は答えを持ってこられる。それが……楽だったんです」

中谷はしばらく考えてから言った。「もし私があなたの考えを聞いているとしたら、私もそれに気づいていなければおかしい。あなたが何を考えているか、わかっているはずですよね」

佐伯は静かに言った。「先生はずっと聞こえていたと思います。ただ、ご自分の考えだと思っていただけで」

窓の外で、秋の雲がゆっくりと動いていた。

中谷は手帳に目を落とした。思い当たることがあった。初診から今日まで、次に何を聞くべきか迷ったことがなかった。このケースだけだった。他の患者では必ず詰まる瞬間があるのに、佐伯との面談ではいつも言葉が自然に出た。まるで質問がすでにそこにあるように。

今朝も、なぜか一時間早く出勤した。佐伯を呼んだのは昨日だったが、早出しようと思ったのはもっと前、前日の夜だった。なぜそうしようと思ったのか、今考えると説明がつかなかった。

「私が先生に問いを送っていたかもしれません」と佐伯は言った。「無意識に。先生に早く来てほしかった。でも自分から連絡するのは違う気がして。だから——考えていました。先生が来るといいなと」

「そして、私が来た」

「そういうことが、最初から何度もあります」

中谷はペンを置いた。今朝、早出しようと思ったとき、その動機はどこにあったか。自分の内側から湧いたと信じていたが——本当にそうだったか。

「また来週、来てもいいですか」と佐伯が立ち上がって言った。

中谷は頷こうとした。しかし頷く前に、すでに予約の日時が頭の中にあった。来週の火曜日、午後三時。それは今この瞬間に浮かんだのか。それとも、佐伯が部屋に入ってきた瞬間からそこにあったのか。判断できなかった。

「来週の火曜、三時でいいですか」と中谷は言った。

「ありがとうございます」と佐伯は答えた。「ちょうどそうお願いしようと思っていました」

ドアが静かに閉まった。

中谷は手帳を開いた。

来週火曜、午後三時——と書かれていた。インクはまだ乾ききっていなかった。書いたのは今しがたのはずだった。

でも、書いた記憶がなかった。

自分が書いたのか。それとも書かされたのか。

中谷はペンを持ったまま、しばらく動けなかった。窓の外では秋の夕暮れが広がり、遠くでビルの照明が一つずつ点いていった。自分が今考えていることが、本当に自分のものかどうか——そんな問いが、頭の中にひとりでに浮かんだ。

浮かんだのか。

送られてきたのか。

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