九月の最終日曜日、海水浴場の夏は静かに幕を閉じる。
大学三年の真鍋有紀がアルバイトをしていた海の家「みなみ荘」も、その日の夕方五時で暖簾を下ろした。夏の間ほぼ毎日顔を見てきた常連の家族連れが「また来年ね」と手を振って砂浜を後にし、最後まで残っていたサーファーたちも板を抱えてロッカーへ消えた。晴れた空の下、潮風だけが砂浜に残り、折りたたんだ海水浴チェアのビニールをかさかさと揺らしていた。
有紀は黙々と後片付けをした。シロップのビンを棚に戻し、かき氷の機械を覆い布で包み、テーブルを雑巾で拭く。お盆の混雑、突然の夕立、日焼けして焼けた腕。今年の夏も終わった。来年もここでバイトをしようと思いながらコンセントを抜いていると、店の前に男の子が立っていた。
小学校の三、四年生くらいだろうか。薄手の白いTシャツと水色の短パン姿で、頭から水を滴らせていた。乾いた砂の上に、小さな水たまりができていた。夕暮れ前の橙色の光の中で、少年の肌はどこか青白く見えた。夏の子どもの肌ではなかった。
「かき氷、ある?」
「もう閉店なの」と反射的に言いかけて、有紀は少年の顔を見た。なんとも形容しがたい表情だった。嬉しそうで、でもどこか寂しそうで、少し急いでいるような——大人が時々する「名残惜しむ」顔に、どこか似ていた。子どもがそんな顔をするのを見たことがなかった。有紀はうまく断れなかった。
「いちごで、いい?」
少年は小さく頷いた。
有紀は電源を入れ直し、かき氷を削り始めた。夕暮れの橙色の光の中で、白い氷がふわふわと積み重なっていく。いちごシロップをかけると、鮮やかな赤い染みがゆっくりと広がった。プラスチックのカップに入れてカウンターに置くと、少年は両手でそっと受け取り、スプーンで丁寧にすくって口に運んだ。
「毎年来るんだ」と少年は言った。
「そうなんだ。お父さんとお母さんと一緒に?」
「うん。向こうで待ってるって言ってたから」
有紀は砂浜を見回したが、親らしき姿は見当たらなかった。夕暮れの浜はほとんど無人で、遠くを犬の散歩をしている老人が一人いるだけだった。
「どこにいるの?」
「あっちの方」と少年は海の方を漠然と指した。「今年も来れた、って思ってる」
「毎年、ここでかき氷食べるの?」
少年は小さく首を振った。「前に一回だけ食べた。すごく美味しかったから。また食べたかった」
毎年来るのに一回しか食べていない。有紀はちょっと変だな、と思ったが口にはしなかった。子どもの言うことはよくわからないことがある。
少年はゆっくりとかき氷を食べた。急いでいるようなのに、ひと口ずつ丁寧に、底まで残さず食べた。途中でふっと遠くを見るような顔をした。
「どんな味がする?」と有紀は何となく聞いた。
「夏の味」と少年は言った。「夏は終わっちゃうから」
カップをカウンターに戻したとき、少年は少しだけ微笑んだ。
「ごちそうさま」
「はい。来年もまた来てね」
有紀がレジ袋を探して下を向き、すぐに顔を上げると、少年の姿がなかった。
カウンターを出て砂浜を歩いてみたが、人影はない。老人も、もう見えなかった。夕暮れの海だけが静かに波を繰り返していた。少年が立っていた場所には、水たまりの跡も足跡も残っていなかった。
代金を受け取り忘れた、と苦笑いしてカウンターに戻ると、カップの隣に十円玉が一枚置いてあった。かき氷一杯百五十円には遠く及ばないが、それだけでいいという気がなぜかした。
手に取ると、十円玉は異様に冷たかった。九月の夕暮れよりずっと冷たく、長い間水の中にあったもののような冷たさだった。裏面を確かめると、製造年が打ち込まれていた。
二〇一六年。
翌日、有紀はシーズン締めの書類を持って、みなみ荘のオーナー田中さんの事務所を訪ねた。世間話の流れで昨日の少年のことを話すと、田中さんはコーヒーカップを持ったまま動きを止めた。
「白いTシャツで、頭が濡れてた?」
「はい。かき氷をいちごで食べて、気づいたらいなくなっていて」
しばらく沈黙があった。
「十年前のことだよ」と田中さんはゆっくりと言った。「ちょうど九月の最終日曜日、シーズン最終日に、男の子が溺れた。この浜で。たかし君と言って、当時九歳だった。家族で来ていて、お父さんとお母さんが荷物をまとめていた一瞬に、波にさらわれた」
有紀は喉が渇いた。
「毎年この日にご両親が来るんだよ。何も言わずに砂浜に座って、しばらく海を見てから帰る。今年もいらしてたよ。夕方の五時頃」
五時頃——少年が店の前に立っていた時間と、ぴったり重なっていた。
「たかし君のこと覚えてますか?かき氷は好きでしたか?」
田中さんは少し間を置いた。「一度だけ食べてくれたよ。事故の当日に。いちごで」
有紀は何も言えなかった。
家に帰って、もう一度十円玉を見た。二〇一六年製。たかし君が生きていた最後の夏の年に、どこかのお店のレジに入ったお金だった。
有紀は来年もみなみ荘でバイトをしようと決めた。
九月の最終日曜日の夕方に、かき氷の機械の電源を入れておけるように。今年は突然で慌てたが、来年はもっと早くから準備しておきたい。いちごシロップの補充も忘れないようにしなければ。
「夏は終わっちゃうから」と少年は言った。
だから毎年、終わりに一度だけ来る。夏の味を、もう一度食べるために。