江口美紀が最初のインターフォンの異変に気づいたのは、十月に入って最初の火曜日の夜だった。
翻訳の仕事が詰まっていて、午前一時過ぎまでデスクについていた。ようやく区切りのいいところまで進んで、ソファに横になろうとしたとき、玄関の子機が鳴った。
単調な二音のチャイム。
部屋の中の静寂が、薄く裂けた気がした。
美紀は三十秒ほど動かなかった。深夜一時すぎに押してくるのは宅配でも近所づきあいでもない。このマンションは一階がオートロック式で、エントランスで住人番号を打ち込まなければエレベーターのある内廊下に入れない。それでも、廊下で物音がするわけでも、ドアが揺れるわけでもなかった。
美紀はソファから立ち上がり、玄関のモニターをのぞいた。
誰も映っていなかった。
白い蛍光灯に照らされた廊下と、玄関前の何もないスペースが映っているだけだった。子どもが悪ふざけするような時間帯でも場所でもない。翌朝も夜も、特に何事もなく過ぎた。
翌日の夜も、同じ時間帯に鳴った。
今度は一秒でも早くモニターを確認しようと身構えていたが、廊下には誰もいなかった。美紀は念のため部屋番号を確認した。802号室——自分の部屋で間違いない。
三日目の夜から、美紀はインターフォンの録画機能を使うことにした。このシステムには来客映像を最大三十秒間自動記録する機能があると説明書に書いてあった。八ヶ月住んでいて一度も使っていなかった機能だ。
チャイムが鳴ったのは午前一時二分。これが一日目から変わっていない時刻だった。
翌朝、美紀は録画映像を再生した。
廊下の映像には、誰も映っていなかった。玄関ドアの正面、来客が立つ位置には誰もいない。
でも画面の左端——廊下の奥、非常口の手前あたりに、何かが映り込んでいた。
暗がりの中で、縦長の輪郭が立っていた。人の形をしていた。
翌日も翌々日も、同じ時間に録画を重ねた。五日間の映像を並べて確認すると、廊下の奥に映るその輪郭は、一日ごとに少しずつ手前に移動していた。
最初の夜は廊下の奥の暗がりにいた。二日目は非常口と自分の部屋の中間あたり。三日目はさらに近づき、四日目は廊下の中ほど。五日目には、廊下の中央からもう少し手前まで来ていた。
美紀はノートに日付と位置の変化を記録した。数字に起こすと、一日あたり約二メートルずつ近づいている計算になった。
仮にそのペースが続けば、七日後には自分のドアの前に到達する。
美紀はその日の午後、管理人室に行った。録画映像を見せ、廊下のつきあたりに人が立っているように見えると切り出した。
管理人の中年男性は画面を四、五秒見てから、言葉を選ぶように言った。
「廊下のつきあたり——非常口の手前ですね」
「ええ」
「あそこには、壁しかないんですよ」
美紀は聞き返した。
「四年前の大規模改修で、非常口の位置を変えました。以前あった通路の一部を塞いだんです。床から天井まで石膏ボードの壁で、表面は他の廊下と同じ仕上げになっているので見分けがつかないかもしれませんが、あそこに人が立てるスペースはないはずで」
管理人は映像をもう一度見た。
「何が映っているか、私にはちょっと」と言って、目を伏せた。
その夜、午前一時二分にチャイムが鳴った。
美紀はモニターの前に立ち、深呼吸してから映像を確認した。
廊下の奥に、輪郭はなかった。
中ほどにも、なかった。
美紀は息をついた。管理人に話したことで、何かが変わったのかもしれない。そう思いかけた。
そのとき、廊下の蛍光灯が一本、小刻みに揺れた。
画面の右端。
ドアノブから、一歩先。
白い、縦長の輪郭が立っていた。
頭部にあたる場所に、黒い点が二つ、並んでいた。
美紀はモニターから目が離せなかった。
二つの点は、画面の中でじっとこちらを見ていた。
廊下の一歩先まで来ている。それが今夜であれば、明日の夜は——。
美紀はモニターを切った。
翌朝、美紀は部屋の解錠ログを管理会社に問い合わせた。昨夜の午前一時から二時の間に、802号室のドアが解錠された記録はないか確認したかった。
担当者は少し間を置いてから言った。
「午前一時三分に一度、解錠の記録がございます」
美紀は電話を持ったまま、玄関ドアを見た。
チェーンは、かかっていた。